<intoxication> 俺より少しだけ冷たい指先が、耳の後ろを弱く掻いた。肉の薄い部分に触れられても、それが薫くんなら気にもならん。 いつからそう思うようになったのかは、覚えてはいないけれど。 ぐいとグラスをあおると、あきれかえるほどに滑らかな渋みが喉をなでた。 かすかに硬質、鋭さときめの細かさのある、繊細な味わい。少しだけの重みと、少しだけの神経質さ。 ふと、かつての薫くんに似ていると思うた。 薫くんにうながされるままにグラスを渡すと、薫くんもグラスを干して立ち上がった。テーブルまで行って、ワインを注ぎなおす姿を目で追う。 華奢ではないが細身。力はたぶん、俺よりもない。 男としてはどうなんやろ、と思わへんこともないけど――でも確かに夢想をするのは、その腕に抱かれるところ。 抱きしめて、キスをして、それから優しく――あぁそうだ、絶対に、もどかしいくらいに優しく――俺を犯すところ。 思い浮かべて、そのひどさに失笑をして、それから、想像の中の俺が嫌がってはいないことに気づいて、すぐに失笑を打ち消す。 ――せや。 嫌でなん、ないんや。 暗緑色のボトルから零れ落ちるそれは、空気の色を塗り替える。 濃密で甘く、艶めいて美しく、経た時間の分だけの深みのある色。 ――薫くんと過ごす時間の色は、きっとこのクラレット。 薫くんが、ワインと一緒にチーズを持ってきた。 ひとつ、と思うて手を伸ばすと、先に薫くんが一切れつまみ上げて俺の口元に差し出した。 苦笑しながら、おとなしゅう口をあける。 満足そうに俺の口の中にチーズを放り込むと薫くんを見ると、俺も相当酔うたなと思わざるを得ない。 けれど、悪くない酔いでは、ある。 「顔、赤いで。もう酔うたか?」 2杯目のワインを渡しながら、薫くんが笑う。「あぁ、酔うとるな」と答えて、俺はグラスに口をつけた。頭の奥が、じん、としびれる。 「薫くんも、変わったな」 俺がぼんやりとつぶやくと、薫くんは「そうか?」と言うて、またスツールに腰掛けた。薄い生地のシャツがしゃらりと衣擦れの音を立てて、襟の開いた胸元をさらす。ふと触れてみたくなるような、ぬくもりのある肌の色。 「あぁ、変わった」 確信めいた口調で宣言して、けど、変わったのは俺の見方かもしれへんなと思うた。 ボトルのそこで眠っとったワインは、まだ硬い。 じっと身を縮めてこちらを伺うような、静かな味わい。 けどその中に垣間見えるのは、強い輝き。 「じゃあ、変わった俺を、京くんはどう思う?」 にやりと笑いながら、薫くんが言うた。意外な質問に、俺は片方の唇で笑う。 どう思う、とは、また卑怯な。 「せやなぁ」とつぶやきながら、俺はグラスを揺らす。さして慣れないスワリングでも、ワインの涙はあでやかに光った。 かつての薫くんをどう思うのか、ならば答えられる。仲間として統率者として、十分に有能。メンバーとしても友人としても、ええ奴ではあるけど、常にどこか硬く冷たく――俺の内部には、決して入ってくることのない存在。 それが俺の認識やった。 だから、俺は笑い飛ばしたんや。 好きやと言われたあのときに。 けど、薫くんは変わった。その変化は、 「悪くはないとは、思うで」 わざと歯切れの悪い言葉を返して、俺はグラスに唇をつけた。スワリングで空気に触れて、香りは鮮やかに花開いていた。 呼吸をすれば、ワインはそのまぶたを上げる。 それは豊かにふくよかに、物言わぬまま多くを物語る。 裏打ちされた優しさの中に懐深く抱かれるように、穏やかで、やわらかで、あたたかい。 目を閉じてそれを味わえば、眉間に熱がともる。頭の中がぼんやりとして、思考が融ける。 美しい音楽の中に沈み込んでいくような、快楽に満ちた酔い。 幸福にさえ程近い快楽に酔って、酔わされて、 「7年後には」サイケな線を描くまぶたの裏を見つめて、俺は言う。「もう、今の俺もおらへんのやな」 この血も骨も、頭の中も、キレイさっぱりひとつひとつが変わっていく。 この言葉も、酔いも、――思いも。 全ては朽ちて姿を変えるのだと思うと、なにか淡い寂寥の感が湧いた。そんな思いを抱いてはならないと、押し込めるように振り払おうとして、 「けど、俺は覚えとるで」 穏やかな声に、俺は目を開く。 目があうと、薫くんは小さく首をかしげた。薄い唇が笑う。 「これまでの京くんも、今の京くんも。7年たっても」 俺は目を細める。 言葉にさえならない俺の思考にも、そっと寄り添うその言葉が、肌からしみこんで血をめぐらせる。 変わらないと言うのかおまえは。 肉のひとかけ、血のひとしずく、そんなものが、すべて消えてしまっても。 変わらず、いや、そうだ、あるいは、変わりながら。 触れたその部分から、薫くんはゆっくりとその内側をさらけ出して開いていく。 だからいつも、触れたと思うたそれは幻。掴んだと思うたそれは偽り。 知ったと思うた硬さは、冷たさは、やみくもに手を伸ばす俺を嘲笑い――気が付けばここは、めくるめく色彩の柔らかなぬくもり。 出ていくことを願えない、扉を開いたままの檻。静かに密やかに降り積もり、俺を動けなくする澱。 「ホンマ、やな?」 忘れへん、なんて。 念を押した声は、イタズラじみた音にするつもりでも、その中ににじむ懇願をうまく隠せた自信は、ない。 あぁ、いつから俺は、こんなにも。 叱咤の声は弱く、弱さをなじる傷跡はひりひりと痛い。 そして、薫くんのほほえみはそこに、優しく蜜を塗り込んでいく。 「肉を1ポンド、かけてもええで?」 極上のクラレット。 これは酔いだ。 鼻も舌も目も思考も全部狂わされて、その機能が鈍らされる。 だから、見る間にゆらめき色を変えるその様を、ことさら美しいと思うし、空気をはらんで変化した味わいを、ことさらすばらしいように思うんや。 そうだ、これは酔いや。 今だけ。この時だけ。酔いの中で狂うだけ。 ワインをあおってため息をつく。芯に熱が沁みた。 「少し、休むわ」 グラスを差し出すと、薫くんの手が伸びてそれを受けた。片手に空のグラスをふたつ持ち、あいた方の手で俺の頭を撫でる。優しいまなざし。 力をかければその分だけ、俺の形に場所を空けてくれるような、錯覚。 わずかに目を細めれば、その感覚ははっきりと感じられて、酔いとまざってくらくらと世界を回す。 「おやすみ」 「あぁ、おやすみ」 空気が動いて、瞬間、額に唇が落ちた。 少しだけ驚いて目を開くと、薫くんは変わらず穏やかに笑うとった。 俺はついいじわるく唇をゆがめて、それからゆっくりと目を閉じる。 せや、これは、酔い。 7年越しの、ひどい酩酊。 注がれ続ける甘い毒に、酔眼では先も底も見つけられない。 このままではあかん、と、かすか残る理性が警鐘を鳴らす。脈打つクラレットに踊らされて、いつかその魂まで酔わされるのだと。魂が酔うてしもたら、その先に覚醒の明かりは差さんのやと。 永遠の酩酊。ただ落ちていくだけの、おそろしくも心地の良い加速。 二度と元には、戻れない、けれど。 ああ。 それでも。 それでもかまわないような気が、するんや。 いつくしむように、ぬくもりが俺の肌を撫でる。 赤ワインの香りに混ざる、かすかな薫くんのタバコのにおい。 まえよりずっと、ずっと、あいしとう。 よみがえる声に、一度、どくりと脈が強く打った。 ほら、こうして、おちてゆく。 おとされて、ゆく。 了 |
『ソドムのりんご』の藤九朗さんにリクエストしたらば、こんなにも素敵なお話を書いて下さいました!!
ワインの芳醇な香りに包まれた空気の中で交わされる2人の会話と、其々の中に巡る思考が堪らなく好きです。
この雰囲気に酔いそうになるような、そんなふうです。
藤九朗さん、本当に有難う御座いました!!
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