※時代背景を考慮して名前を多少変えていますので苦手な方はプラウザバック推進。









仲ノ町の夜桜




 3月の吉原最大の行事は夜桜である。艶やかさを人工的に演出する吉原の年中行事の中でも最も華やかだ。仲ノ町に2月の末から植木屋たちが入り、桜の樹を植え始める。根元には山吹を添え、周囲には青竹で欄干を設け、中に雪洞を立てるのである。
 大門から水道尻までの約250メートルの桜並木は実に素晴らしい。桜の丈は高からず低からずで、見世の2階の座敷から眺めて丁度良い。此れが俗に言う“仲ノ町の夜桜”だ。
 そして又、其の桜雲の下を外八文字でゆっくり進む豪華な花魁道中も人々の気を惹き付けた。



 今夜は晦日である。1ヶ月に及び吉原を華やかに飾った桜も明日には根こそぎ取り払われる。故に仲ノ町の通りは最後の夜桜見物の人々で賑わっていた。

 「旦那、旦那、夜桜も宜しいですがお揚がりになりやせんか」

 江戸町1丁目に見世を構える「菊野屋」の妓夫〈ギユウ〉の京助は客の呼び込みをしていた。縞の着物の上に菊野屋の半纏を羽織っていた。10歳の春、京都から女衒に連れられて奉公に上がった其れも今年で14年目であった。
 今夜はこの人込みの割に見世に揚がる気持ちの者は少なく、男たちの目的はむしろ桜を眺める事にあるようだ。籬〈マガキ〉を覗いている者はひやかしで、3人に声をかけたが3人ともすぐに立ち去ってしまった。

 「今日は暇だな」

 仲間の妓夫が苦笑しながら近付いてきた。

 「ほんまになあ。俺ぁ御馴染みしか見てへんで」

 「秋舟花魁なんざ見揚がりしたらしいじゃねェか」

 「何でぇな?」

 「これが粋な理由よ。夜桜を楽しみてェてのよ」

 “見揚がり”とは遊女が自分で仕舞いをつけて商売を休むことである。
 其の日の揚げ代は遊女の借金として加算される。
 特別な日に仕舞いをつけてくれる客が見つからない例や、体調が悪い例などに見揚がりはするものだが、夜桜見たさにとは間夫相手よりも馬鹿らしいと笑われそうなものだ。
 吉原の遊女たちは常に金に雁字搦めにされている、其のような悠著なことは言っていられるものではなかった。

 「あの花魁は変わり者や」

 仲間の妓夫は笑って相槌を打つと離れていった。視線をやると品定めをしている侍風の男に声をかけている。
 京助は桜並木に視線を変える。雪洞の薄灯りに照らされた桜は実に優美だ。
 明日にはこの並木はなくなり、代わって植えられるのが牡丹であった。吉原は豪華な花が好きであり又よく似合う不夜城でもあった。

 「京助さん、京助さん居りいすか」

 見世の中から秋舟付きの禿〈カムロ〉のやほりの声がした。
 振り向くと菊野屋の屋号を染め抜いた山吹色の暖簾を潜って、切り下げ髪の頭が出てきた。

 「何やい?」

 やほりは縞の着物に紅色の綿繻子の半襟をかけて油掛けという納戸色の胸当てといった、禿特有の格好をしていた。

 「花魁が呼んでありいす」

 「花魁が?」

 噂をすれば何とやらである。秋舟とは年が近かったせいもあり奉公にあがった時分より親しかった。未だによく言葉を交わす。然し部屋に来いというのは初めてであった。
 京助は真上にある秋舟の部屋を見上げた。
 


 「へい、花魁、お呼びですかい」

 秋舟は窓際に寄って煙管を遣っていた。
 低い声が向けられた。

 「お入りなんし」

 「よろしいんで?」

 妓夫が遊女の部屋に用もなく入ることは禁じられている。

 「大事な話でありいすから」

 京助は頭を下げると障子を閉めて中に入った。
 秋舟は戸を閉めると黙って茶を淹れ、棚から菓子を出した。吉原の菓子屋「竹村伊勢」の最中である。この最中は吉原名物のひとつであった。

 「見揚がりしたらしいやないか?」

 其れを受け取りながら京助は正座を崩して胡坐をかいた。言葉も崩す。

 「夜桜見物したかったんやて?」

 秋舟は長煙管に火を付けて白い煙をもわりと吐き出しながら、暫くは煙を目で追ったまま京助の呼びかけに応えなかった。言い出す言葉を探しあぐねる時の秋舟の癖であり、其れは京助の好まない秋舟の癖であった。

 「大事な話て何やい」
 
 痺れをきらした京助がこうして誘導するのが、二人の会話の流れを作っていた。
 秋舟はちらりと京助に目線をやると、すいと形のいい眉を上げた。

 「敏さんが祝言を挙げるというのはまことでありいすか」

 京助はもうひと口で食べ終えれる小さな最中を、口の前で止めた。

 「…誰に聞いた」

 声が低くなったのが自分でも判る。

 「吉川さんざます。昼見世前に聞きんした」

 「吉川花魁は其れを誰に聞いたて言うてはったんや?」

 「敏さんからと」

 敏とは、本名を敏次という23になる菊野屋の息子である。菊野屋の遊女が生んだ子であり、本来ならばそういう子供はよそに貰われていくのだが、主人夫婦が男の内芸者に仕立てようと手許に置いたのだ。
 今は引見世の時間になると紋付、袴の正装で三味線を抱え見世清掻〈ミセスガキ〉を弾く。芸者名を敏弥といった。

 「昨日聞いたばかりと言うておっせェした」

 秋舟は部屋着の襟を肩の上に引き上げながら話す。

 「京さんなら知っていると思いなんして、見揚がりしたざます」

 「お前は金棒引きか」

 金棒引き、とは、世間の噂好きを指していう。

 「こげな時に茶を言わんでくだっしッ」

 秋舟は眉間に皺を寄せると、火鉢の縁で長煙管の雁口を叩いて京助に睨みを向けた。

 「何が夜桜見たさかよう言うわ」

 京助は秋舟のそんな視線を無視して手の中の最中を口に放り込んで其れを茶で一気に流し込んだ。本来は上品な最中も、そうして食すと味も何も判らない。

 「京さんは敏さんから聞いていたでありんしょう」

 そんな京助を見ながら秋舟はまた白い煙をもわりと吐いた。今度は煙を目で追いはしない。
 敏次の祝言の話が決まったのはつい先月の28日、紋日の日であった。まだ見世の者たちには知らされておらず、京助も敏次の口から聞かされたばかりであった。
 どうして敏次が吉川に話したのか初めは怪訝にもなったが、考えてみれば吉川は呼び出し昼三の菊野屋一の稼ぎ頭。遊女たちの誰よりも早く伝えられても可笑しくはない。だが想像するには其れは敏次と吉川の会話の中に生まれた話題に過ぎないだろう。むろん、内聞にとは言っている筈である。

 「祝言がいつかとか、相手が誰かとか、吉川花魁は何や言うてはったか?」

 湯呑みを突き出して茶の催促をしながら、京助はぶっきら棒に訊ねた。

 「いいえ。吉川さんも其れは聞いていんせんとおっェした」

 注がれる茶は極上の玉露である。

 「京さんは全部聞きなんしたか?」

 吉原で一般的に飲まれる茶は玉露であった。

 「日は秋葉大権現祭礼の前後らしいけど、忙しいし後なるんちゃうか言うとった」   

 「お相手は誰でありいすか」  

 秋舟は自分も湯呑みに口を付けた。ずずと小さく音がなる。

 「おさきさんとこのお染さんやと」

 其れを聞いた秋舟は目を丸くした。
 湯呑みを持ったままに止まっているから、大きく見開かれた目だけがひょろりとこちらを覗く。
 見揚がりをした為に今日の秋舟は髪を横兵庫にも結っていなければ化粧もしていない。然し其れでも黒目がちな眼、長い睫、細い鼻、おちょぼ口と、非のうちどころのない秋舟の其の美しさは十分に通る。

 「おさきさんに子供がおりいしたか」

 おさきとは菊野屋の内芸者で、敏次と共に日替わりで店清掻を弾いている。年は知らない。京助が奉公にあがった時には既に菊野屋の内芸者だった。

 「19になるんやと」

 「芸者さんでありいすか」

 「浅草寺の近くで下地っ子(芸者の見習い)をしとんのやて。ここに内芸者で入って、お内儀の修行をさせてこうつーのが親仁たちの考えらしいわ」

 秋舟は喉をひとつ鳴らして茶を飲み終えると短く溜息を吐いた。

 「それで、京さんはどういう了簡でいるざますか」

 声音に急に厳しいものが混じった。
 秋舟が何を訊かんとしているのか京助は其れを承知であったが、知らぬ振りをしようと思った。そのまま素直に答えるのは自身の意地が通さない。こういうのを男の意地、とでもいうのであろうかとふと考える。

 「どういうて?」

 あえて目は外した。

 「とぼけなんすかッ」

 「何をや?」

 「敏さんとの事ざます」

 「敏がどないした?」

 「京さん!」

 秋舟は癇をたてた。
 立ち上がったなと思ったら、手にしていた長煙管を京助の臑目掛けて振り下ろしてきた。

 「あっぢ!!」

 熱くなった雁口は加減ない強い力で肌を叩いた。
 一瞬であるがあまりの熱さ、むしろ痛さに京助は思わず腕を引いてすぐさま息を吹きかけた。

 「京さん、ふざけていなんすか」

 見上げて見た秋舟の目は吊り上がっている。

 「相惚れしている相手の話を誤魔化すとは、ぬしはでくかえ」

 「…」

 呆れたざます、と小さく呟くと窓際に座りながら戸を少し開けた。夜桜が顔を覗かせ、外の喧噪が部屋に入ってくる。
 四角く切り取られた中に浮かぶ夜桜と、其の向こうに俄かに見える向かいの妓楼の赤い格子とはまるで絵になる。この風景を歌川広重にでも描いてもらいたいものだ。
 秋舟は頬杖をついたまま動かない。夜桜を見ているのか仲ノ町を見ているのか、それとも大門の向こうの灯りを見ているのか。視線を探っても其れは判りかねた。
 然し、何に癇をたてたのかは明白であった。知らぬ振りをするのには、話の内容が重過ぎたかと京助はこうべをたれた。

 「すまねぇ」

 そうして出た言葉は謝罪であった。

 「…敏さんが可哀想ざます」

 暫くして返ってきた秋舟の声は震えている。

 「お前、何泣いとんねんな…」

 気丈な秋舟である、滅多な事ではそう泣かない。京助だとて長い年月で見たと言えば、秋舟が振袖新造の頃に世話になっていた花魁が請け出された時と、馴染みであった大店の旦那が亡くなった一昨年の二度だけだ。一人の時に泣いていたのかも知れないが、それでも人前では泣かない、秋舟はそういう遊女である。
 そんな秋舟が何をいきなりの泣き出したのか、京助は驚いて傍に寄った。

 「秋舟、」

 手を伸ばしたが軽く払われた。

 「敏さんが祝言を挙げるのが京さんは悔しくないざますか」

 秋舟は袖で目許を拭いながらまだ声を震わせていた。

 「…悔しいも悔しくもないも」

 「言い訳は聞きとうないざいます、わっちはどちらかと聞いていす」

 「…悔しぃはない」

 本音であった。

 「けど、嫌気はさした」

 京助は力なく笑った。

 「俺ぁ、男や。あいつも男や。どっちかが遊女やったら年季明けにでもなれば添い遂げれる、そんな事でも言えたもんや」

 懐から手拭を出すと秋舟に渡してやった。秋舟は其れを目に押し当てた。

 「此ればっかりはな、どないしょうもあらへんのや」

 壁に凭れかかって京助は戸から上を見上げた。満枝の花びらでびっしりと隙間ない其の上に、果てもない黒々とした空が拡がっている。 

 「お互い男なら抜けるのも簡単でありいせんか」

 「阿呆言うな。そないなことしたらおときさんに顔合わせできんやろ」

 「誰も駆け落ちとは思いもいたしんせん」

 「それでもや。祝言を控えた婿さんが行方知らずになるなんざ、何ぞ疑い持たれても可笑しいない」

 京助は視線を空から仲ノ町に移した。
 豪勢な桜並木は遥か奥まで続いている。誰であったか、この人工的な桜並木を江戸一だと言ったのは。

 「京さん、心中はどうざますか」

 秋舟は商品を勧める店の者のような口調で、とんでもない事を言ってきた。

 「お前こそでくかッ」

 「相惚れしていんすに添い遂げれないなら、いっそ相対死をすればいいでありいす」

 何か訳知り顔で秋舟はのうのうと話す。長煙管に本日二度目の火を点けた。

 「お前は本物のでくや」

 「男ならそれくらいの器量でいなくてどうしいすか」

 「そういう事は間夫にでも言うてやるんやな」

 京助は小指をたてて耳掃除をしながら横目を秋舟に向ける。故意に呆れた溜息をついてみせたが、秋舟は澄ました其の表情を変えない。

 「間夫と遊女の心中でも大沙汰になるてェのに、妓夫と見世の息子の心中なんざ吉原中どころか江戸中の笑い話になるわいな。浄瑠璃の題材にもしてもらえへん」

 「そんな事判りいせん、皆同情を向けるかも知れないざます」

 「心中てとってくれたらえぇけどな、殺し合いに見えたら八丁堀の騒ぎやぞ」

 「お互い白無垢を着ればいいざます」

 「…もし首尾良くいってもや、見世に人は寄りつかんようなるやろし、失敗してみろ俺も敏ももう吉原には居てられへん。かと言って娑婆で生活なんかできへんやろうしな。どっちにしろお先はよろしいあらへん」

 引かない秋舟に何と言えばいいのか途方にくれかけたが、見世の存続と京助たちの身の振り様を出すと、返す言葉に詰ったようであった。眉間に皺を寄せて視線を泳がせている。

 「得心せぇ。どないしょうもあらへん」

 色恋沙汰が手練手管と金の吉原にも、其れ等ですら割り切れない事があり、この世界にはこの世界なりの仁義と情がある。吉原の人間は皆、其れを骨の髄まで熟知していた。
 然し、京助と敏次のことは割り切れないからと言って仁義や情が通じる訳でもないのだ。金も手練手管も何も通じない。ただ無心で割り切るしか他にない。秋舟にあれやこれやと言われなくても京助は京助なりに色々と考えてきた。だが考えても考えても自分たちの先というのは、まるで苦界に身を沈めることのようであった。分別のいく年になれば其れは尚更重く圧し掛かる現実であった。



 京助と敏次が相惚れの関係になったのは12歳の冬の頃だった。遊びで遊女の格好にされた敏次はまごうことなき女であり京助は其れに敏感に反応した。敏次はそんな京助を面白がってからかい、そうして「親仁の真似事」と言って京助は抱かれた。親仁の真似事なら遊女の格好をしている敏次を京助が抱くのが普通だろうと言ったが笑って流された。何の抵抗も流された。其れが遊びになり、又其れが癖になり、結局は恋情になってしまった。お互いに認識したのは半年後ぐらいだったか。
 知っているのは秋舟だけである。



 「京さん、生まれ変わったらお染さんになるざます、そうして敏さんと所帯を持ちなんし、絶対でありんすえ、絶対に、」

 むせび泣く秋舟の掠れ声は酷く弱々しく聞こえた。
 
 「せやな。」

 夜桜を見上げて苦笑いを作りながら、京助は其れだけを返した。
 

 
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