ニラを炒める香りがツ、と掠めて堕威は読んでいた化学書から頭を上げた。隣の部屋の窓の外はもう殆どが暗い。10月も半ばを過ぎた今は日没も著しく早く、見やった携帯の時計が6時前なことに違和感があった。

 「リーダー、何このニラ炒める匂い」

 後ろでパソコンをカチカチいわせている京に声をかけたが、返ってくるのは同じキーボードーを叩く音で京の声ではない。振り返ると床に胡坐をかいた小さな身体は随分な猫背だ。机の上のパソコンを眼鏡をかけた目で、過剰な至近距離で見つめている。
 集中すると時間の流れや周りの動きなどにまるで鈍感になるのが京の長所であり短所である。集中力があるのはいいことなのだが、彼の場合は没頭するあまりに食事や睡眠をも放棄する。一度始めると納得がいくまで決して止めないし投げ出さない、半面で他の事柄には全く見向きもしないのでそういう状況の京との会話は少なくなる(彼の頭が其れ一色になるから)。
 だが、だからこそ天才なのだろうが。

 「リーダー」

 今度は多少大きな声量で名を呼んだ。呼ばれた当人は自分だけの世界に突然他のモノが侵入してきたというのに、大して驚きもせず手を止めてゆっくりと此方に首を回した。
 
 「あ?」

 目が少し疲れた色をしている。眼鏡をかけたままあんな距離で液晶画面を眺めていればそうもなるだろうと堕威は呆れた。

 「何このニラ匂い。」

 「ニラ?」

 京は不思議そうに眉間に皺を寄せて、スンスンと鼻を鳴らしながら首を一度傾げる。

 「せえへんけど?」

 「鼻悪い?」

 「悪ないし。ホンマせえへんのやて」

 「えぇ?あーまぁ確かにちょっとしか匂わへんけど」

 「…時間も時間やからどっかの家で炒めとんちゃうん?」

 「まだ6時前で?」

 「世の主婦の方々のリズムなんかお前には判らんやろ」

 「…」

 堕威が黙ると京は目を細めて、又液晶の画面に顔を戻した。
 覗いた画面には一面にびっしりと文字が並んでいる。

 「リーダー今度は何の研究しとん?」

 長身の身体に付いた長い腕を伸ばして片肘を着きながら、画面を横から覗き込んだ。

 「ええ加減上司やねんから敬語使ったら。」

 「慣れんな3年も此れやのに」

 「使える頭はお特やな」

 「あら有難う。」

 棒読みの台詞に棒読みで返した。
 本当に今更だと堕威は内心反復する。京の研究所に加わってからこの人に敬語を使ったことなど一度だとてないし、研究員の誰一人して京に対しては敬語なぞ使っていない。何よりも彼自身がそうされることを嫌っているのだ。
 研究に打ち込み成果を出す、それを成し遂げれていれば上司も部下も関係ない、とのことだった。

 ―化学者として尊敬も敬意もはらっとうけどな
 
 この世は化け学で成り立っているのではと堕威は常々考える。化け学を学ぶことは世界の原理であり、探求は世界の構築を知ることになる。と、いうのは京の持論であるが其れに間違いはないとも思う。
 科学技術だとて根源は化け学だ。大きな何かを生み出すには、必ず小さなエネルギーの塊存在している。突き詰めれば其れは目に見えない世界にまで広がる。どこまでも続くふうに見えて、結果は必ず存在していた。
 例えば5の物質を素には5の物質を含んだものしか出来ず、更にもうひとつの物質が加わればその時点で既に全く別の物へと変化する。
 広い其の世界に堕威は魅了され、欲しい知識を吸収しただけしているうちに若くして学者顔負けの頭脳になっていたのだ。

 「リーダー、飯食いに行こうで」

 仕事中邪魔をされるのを京がことごとく嫌っているのは知っているが、空腹時にそういうところにまで堕威の頭は回らない。無意識で京の肩に触れると

 「触んな」

 随分に冷たい声で突き放されてしまった。パソコンを叩く速度は変わらない。

 「言いつけた調べもん出来たんか?」

 「無理や」

 「は?」

 「鉛は鉛であって万物換金には繋がらん、てのが至った結論」

 傍らに置いてあった白色の手帳を広げるた。如何せんそこには研究メモらしきものではなく、頁を斜めに横切って今堕威が発言した事がそのまま書いてある。然し京はこちらに振り返らない。

 「誰も結論なんか要らんねん。俺は過程を調べろ言うたやろが」

 「要求に無理がある。そもそも何でもう誤りやいう錬金術なんか調べなアカンねん」

 「何回言うたら判るねん。錬金術は誤りでも、実用化学の知識は得られた言うとねん。中世からの実験技術で無機塩類を発見するなんか神秘やで。錬金術は化け学の基礎や」

 化け学の世界を語るときの京は実に活き活きとしていた。目は輝き口調には喜々としたものが感じられた。京を見ていると天才と狂人は紙一重なのかも知れないと、本気で思う事がある。
 
 最近堕威に出された研究課題が“錬金術における万物換金の過程”であった。
 銅や亜鉛のような卑金属(簡単に酸化する金属)を金や銀のような貴金属に転換する事は、現代に置いては出来ないというのが証明されているのだが、古代人は貴金属を得ようとする熱烈な欲求から金属転換の夢を抱いていた。アリストテレスの元素論は金属間の転換が人工的手段によって引起こされうる可能性を示唆したので、中世の研究者たちは万物換金という偏見を唯一の思想としてこのような術をきそって研究した。また、其の学者たちを錬金術師と称し、少数の選ばれた者だけが習得できる神秘な術とされた。然し物理学者ニュートンとも親交のあった、近代科学の父である化学者のボイルに至ってようやく誤りが指摘され1500年の長きにわたった古い元素観が打ち破られたのだ。
 然し京の言うように重要な化学知識も得られたし、ソーダ、硫酸、塩酸といったものも多数発見され其れは素晴らしい成果である。
 京は何故か其の錬金術に魅かれていて、其れを知ることは化け学の基礎を知る事に繋がると言って錬金術を否定している堕威に『上司命令』の一言で研究を強いてきた。
 
 「実験しても無理なんはこっちも判っとんねん、計算式や反応式をまとめろ言うとうやろ」
 
 有無を言わさない其の口調と、上司であるという職権乱用な命令方に堕威は自分が折れるしかないというのを自覚した。それでも悔しいから、天才上司の言うことに間違いはないきっと何か自分の為になること得られるに違いない、と言い聞かせながら溜息をつく。
 
 「…明日から取り掛かる」
 
 「よし、ほんなら飯行こか」
 
 漸く振り返った京は勝ち誇ったような、彼特有の笑みを浮かべている。
 
 「何、俺が折れるまで飯行くつもなかったん?」

 何かはめられた感が否めなくて堕威は眉間に皺を作る。

 「俺は飯食わんでもえぇけどな、お前はアカンやろ?否定しとうことを無理にでも納得して飲み込むのは人間の心理的にはなかなか困難や。でもそうして得れることが世の中にはごまんとあるねん」

 言いながら京はパソコンを閉じて、猫背にして凝り固まった身体を解す為にか背伸びをした。首を曲げるとゴキゴキと鳴っている。

 「人生経験かよ」

 「だてに8年長く生きてないで」


 堕威が京の存在を知ったのは、図書館で彼の研究書を読んで以来であった。其の完璧なまでの理論に魅かれた。こうした人について自分も学んでみたい研究をしたいと強く望み、とあるきっかけで顔を合わせる機会を持てたのだが、其の時の驚きは今思い出しても笑えてしまう。
 当時19歳の自分よりも小さな身体の割りに顔も動作も口調も大人びていたから、いったい幾つかと思えば27歳だと言った。しかも堕威の考えが判ったように不貞腐れた表情で。20歳かそこらかと思っていたら27歳だなんて驚いて当たり前だろうし(もっと老人かと想像していたから)、何よりもそれだけの若さであの研究書が書ける頭脳の中には興味が沸いた。其の場で研究を共にしたいと申し出たところ、ニヤリと笑んで

 (君の頭の良さは噂に聞いとうで。俺も興味あってん)

 と握手を求められた。
 3年前の話である。30歳の上司と22歳の部下の関係は変わっていないが、2年前からひとつ恋人という関係も含まれるようになった。

 「ほんなら中華街までポルシェを走らせますか」

 「何でイキナリ中華街?」

 「ふかひれの美味い店があんねん」

 「おお〜其れはもちろんリーダーの太っ腹な奢りてシナリオやんな」

 「もちろん其れを奢ったからには課題を完璧に済ませる堕威、ていうシナリオやで」


 何においてもやはりこの男は上手である。
 




不変の青い
金術における万物換金の過程





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