例えば、箱の中に物が詰まっているとする。
 其の箱の中にもう一つ物を詰め込もうとする時にはエネルギーが必要となる。
 其れが化学ポテンシャルである。
 物は詰め込みやすい方へと、つまり詰め込むのに必要なエネルギー、化学ポテンシャルが小さい方へ移動する。
 例えば、Aという人物に“人を愛する”という感情が詰まっているとする。
 其のAの中にもう一つ、“Bを愛する”という感情を詰め込もうとする時にはエネルギーが必要となる。
 其れが化学ポテンシャルである。
 恋情は詰め込みやすい方へと、つまり詰め込むのに必要なエネルギー、化学ポテンシャルが小さい方へ移動する。
 要するに、恋情を抱いた相手に、こちらへの恋情が見受けられれば、“愛している”という事を伝えるのに必要なエネルギーは小さくとも済む。
 
 化学は世界を構築している、其れは紛れもない事実だ。
 地球も、土も水も火も全ての生命体も人工物も天然物も、全てが分子から成り立っている。ゆえに簡単に言えば、分解も出来れば構築式で表す事だとて可能なのだ。
 ならば、感情はどうであるか。分子の固まりである人の内に存在する感情。分解も出来なければ式で表す事も出来ない、元来目に見える形すらない。酷く曖昧な、然し明確に存在している其れ。
 求める理想は、妄想にしか過ぎない?
 嘘をつく為の嘘は、どういう嘘?
 言葉が羅列した台詞のやり取り。
 意味の見えない伸ばされた指先。
 笑った時の漏れる息。

 そんなものをひとつひとつ意識して、ひとつひとつが好きだと思う、この感情は分子で出来た身体のどこから生まれてくるのか。答えがないのは判りきっている。それでも考えなければ気が済まない。理性なんて保っていられない。いつもギリギリのラインに立って、そこで彼とのやりとりをしている。好きだけれど口には出さない、きっと彼も自分を好きだろうが口には出しそうにない。お互い其れを察している、
 
 けれど―もうそろそろ限界だ。
 
 化学で解明できる世界ではないけれど、化学者である彼に聞いてみよう。 

 「分子で出来た俺のどっから、先生への愛て生まれてくる訳?」

 化学ポテンシャルを持ってして、臭い、27歳が言うにはとても臭い程に甘く“愛”を説明した彼だ。今度も『エントロピーから化学ポテンシャルまで』を片手に判りやすく納得のいく説明をしてくれるのかも知れない。





 
 化学教師・新倉薫、27歳の独身。
 授業中、私語しようものなら例え小声であろうともチョークが飛んでくるほどに今時珍しく厳しさを持っているが、関西弁の気さくな口調に面倒見のいい性格もあって其のギャップが生徒たちには受けている。
 趣味はサッカーらしく、昼休みには校庭で男子生徒たちと遊んでいたりする。そんな化学教師が授業中にのみかける眼鏡は嫌味なくらいに似合っていて、どこぞの国立大学の院で研究を手伝っているらしい秀才振りを際立たせる道具のひとつになっていた。




 原敏弥が彼と知り合ったのは、高校生活初めての夏休みも残り一週間という日の始発電車でだった。
 敏弥は4歳の頃に火事で両親を亡くし、年子の弟と共に教会の孤児院に引取られた。母方でも父方でも、引取るのを拒んだと聞いた。理由が駆落ちしたからだと知ったのは、13歳の時だ。
 たった一人の弟だけがたった一人きりの家族だ。兄だからという立場がそうさせているのか、とにかく敏弥は幼い頃から弟を支えなければという気持ちで生きてきた。何か欲しい物が出来れば自分が与えてやろう、満足させてやろう、不自由はさせまいと。
 ゆえに高校生になってすぐに近所のコンビニでアルバイトを始め、夏休みに入ってからはコンビニを休ませてもらい、短期で弁当工場へ行っている。自分の為じゃない、全てが弟の為だった。

 

 八月下旬にもなると日の出は六月や七月の其れよりも多少遅くなるというのを、敏弥は短期アルバイトを始めてから知った。来週からは九月、暦の上では秋に入るのだから季節は進んでいるのだなと珍しくもそんな事へ思考を巡らす。然し、生憎にも暑さは相変わらずで間近の秋を感じれる要素はひとつとしてなかった。
 始発電車の乗客は少ない。ゆえに乗車する車両、座席、顔ぶれは定番になってくる。敏弥は降車駅の階段に近いからという理由で、三両目の一番目のドアを入ったすぐ右の座席と決めていた。
 二人目の乗客は次の駅からの中年男性だけなのだが、今日は既に先客が居た。しかも敏弥の定位置の前に。
 
 (珍しい、)
 
 かくりと折れた首からして寝ているらしい。紺のサマースーツの上着を傍らに置いて、首もとのネクタイはだらしなくない程度に緩められている。組まれた腕から覗く武骨な手首にはシルバーの時計が嵌められている。上着の横には茶色い紙袋がこちらに口を開けて置かれていて、中には数冊の本が伺えた。
 ひょろりと細長い身体は夏の最中にあってひ弱に見えた。

 (残業帰りのサラリーマン?)

 この夏休みで見る初めての乗客を、発車を知らせるアナウンスが鳴るまで無意識に観察していた。
 動き出した電車に促されたように、「疲れた」と呟きながら荒く座ると、ボストンバックから『化学小事典』を取り出す。長細い文庫本程度の分厚さのこれは、夏休み前最後の化学の授業帰りに実験室から勝手に拝借してきたものだ。授業中に度々使用していて、化学の専門的な用語が細かく説明されている。化学が好きな敏弥にとっては今話題の小説なんかよりも余程面白く、空いた時間の愛読書となっていた。
 しおりを挟んでいたページを捲って、来る時にはどこまで読んでいたのか定かではないから、また最初から目を通す。

 ペルオキソ二硫酸、過硫酸ともよばれた。オゾン臭のある無色透明の結晶。濃硫酸を―

 と、説明は細かな文字で更に四行続いていた。

 「電解酸化で得られる………分析化学…マンガン、」

 敏弥は読書している際、内容を小声に出す癖がある。もちろん周りに人が居ればそうはしないが、今目の前のサラリーマンらしき男性は熟睡中なようだし一人なのと大差ない。へー、だとか、ほー、だとかの感嘆詞も時々に漏れた。
 化学の世界の広大さと精密さに勇希は魅かれていた。単純に見えたものが実は複雑に絡み合った塊だったり、逆に複雑に見えたものが実は単純な構造だったり。一つを解き明かせばもう一つの答えが見え、そこを突き詰めれば更に奥深く広がる。そんな世界を知りたくて欲してきた、もっともっとと。
 ゆえに成績はいい。が、別段勉強熱心な訳ではなかった。好きだから知識を求めた結果、情報が脳内に詰ったのだ。然し其れは到底、一般的な高校生の持つ膨大さではない。

 定比例の法則に合わない組成の化合物。不定比化合物ともいう。金属間化合物やイオン性化合物に―

 「ベルトリド化合物に対して………ダルトニド化合物という、何だ?定比例化合物て、」

 「定比例化合物とは、定比例の法則に従って特定の組成しかとらない化合物のことや。ドルトナイド化合物とも呼ばれとうけどな。其れに書いてあるみたいにダルトニド化合物とも言うけど、一般的にはドルトンの名をとったドルトナイド化合物の方やな」

 「……」

 まるで専門書が喋り出したかのように単語を羅列させる声に驚いて首を起こすと、前に座っているサラリーマンらしき男の黒い双眸と目が合った。
 口はまだ形良く動いている。

 「定比例の法則も倍数比例の法則も受け入れられるようになったんやけど、ドルトンの原子論ではどないしても都合がつかへんような状況が生じてくるようになってきた。それが気体反応の法則。どういうことか説明出来る?」

 「窒素1体積と酸素1体積から一酸化窒素2体積が出来る反応で、窒素も酸素ももし原子だとすれば分割されてしまって、分割できないとて言ってる原子論の基本に反してしまう。じゃねぇの?」

 「おぉ、おもろいなぁ」
 
 「てか、あんた何?」
 
 「いきなり悪かったな、高校で化学の先生やっとうねん。冷房がきつくて目が覚めたんやけど、オマエがおもろいことブツブツ言うとうから聞き耳をたてさせてもろとった」

 然しホンマに寒いな、と愚痴ながら自称高校の化学教師だという男性は傍らに置いていたサマースーツのジャケットに袖を通し始めた。
 
 「先生が夏休みに朝帰り?」
 
 「朝帰りてまた聞こえが悪いなあ。ちょっと休職させてもろて今は大学に居てるんや」

 「何で?」

 「院で友人が研究しとうねんけど、手伝い頼まれたから。昨日も其れで終電を逃したから大学に泊まっとったんや。週末にまで仕事はしたないから帰宅中、て訳」
 
 「研究で金もらえんの?」

 「なかなかストレートやなあオマエ。給料はちゃんと出るで」

 「ふうん。で、いつから学校に戻るの?」

 「新学期からやな。今月一杯で俺の方の仕事は終わるから、後はグループの若いのに任せて時々経過見たらえぇ感じやし。ほんなら俺の次はオマエの番や」

 男性は目を細めてフと笑うと、紙袋から辞書程に分厚い本を取り出して慣れた手つきでページを捲り始めた。何やら探しているらしく、武骨な長い指は忙しなく動く。

 「オマエいくつなん?」

 「え?」

 「歳、何歳なんて」

 「あ、あぁ、17」

 「は?高校生なん?」

 驚嘆の色は声よりもむしろ目に表れていて、俄かに見開かれた目がまじまじと敏弥を眺めている。

 「…何だよ、」

 敏弥の身長は平均よりもかなり高く、顔立ちも大人びた作の整い方をしている。おかげで年齢よりも随分と上に見られる事が多かった。中学生の頃から大学生だ、高校になった最近は社会人だと勘違いされ映画鑑賞をはじめ私生活での支障は付きものとなっていた。
 其れが嫌でせめてもの抵抗に生まれつき色素の薄い髪を学生らしく真っ黒に染めているのだが、あまり効果はない。
 こういった反応には不本意ながら慣れていた。次の台詞の想像は容易だし返す言葉も決めてある。

 「いや、随分専門的なこと言うもんやからてっきり大学生かと思っとったんや。そうか、高校生なんか」

 付け加えるように、確かに顔はまだ子供やな、と口端を上げながら呟くと視線はまた手元に戻された。
 予期していたのは「大人びているから大学生かと思った」等々の台詞だったのに、「随分専門的なこと言うもんやからてっきり大学生かと思っとったんや。」なんて、身長以外で年上に見られたのは久し振りだったし、ましてや顔が子供染みているなぞと、ここ数年言われたこともない。予想外の台詞に咽まで出しかけていた「見かけで判断すんじゃねぇ!!」は結局飲み込む事になった。

 「ジラード−チャルマーズの方法を詳しく。」

 「…」

 こんなこと普通の17歳に判る筈がないのにと、眉間に皺を寄せながら見返すと期待しているような、好奇心を含んだ目が笑んでいた。
 恐らく突然に気体反応の法則について説明しろと振られて、するりと答えれた敏弥が普通の17歳ではないと察したゆえの要望なのかも知れないが。 

 「放射性核種を他の非放射性同位体から分離する方法。中性子照射をしたヨウ化エチルを水と振り混ぜたら、生成したヨウ素128の大部分が水で抽出される。具体的なとこまではまだ知らねぇからこれぐらいでいい?」
 
 「十分や!凄いやん!そこいらの大学生よりかよっぽど出来るで!」

 「どーも。これでも成績いいんだぜ俺」

 思った通りだと満足そうに続けながら、男性は軽い拍手を贈ってきた。其れが何か気恥ずかしくて肩をすくめて誤魔化す。
 ずっと穏やかな声音だったから、こんなにも高揚して喋られると少々面食らってしまう。

 「オマエホンマにおもろいなあ。あ、この後何か予定ある?」

 「あんたってさあ、すげぇ自分の時間で生きてる人っしょ」

 始めからずっと、どこに繋がりがあるのか不確かな話をいきなり振ってきているふうに思える。重ねて敏弥は其れに乗ってもいるし。まだこれだけの会話しかしていなが、どうにも誘導が上手い奴だと感じれた。

 「で、返事は?」

 (流すのかよ)

 呆れて溜息を出しそうになったが、止めた。

 「ねぇよ。何で?」

 「ほんなら今からウチにけぇへん?もっと話してみたい」

 あまりに突然の、突拍子もない誘いに敏弥の口がぽかんと開く。
 
 「さっきからの会話で思うたけど、めっちゃ頭えぇやん。学校の化学なんかつまらんのとちゃうん?」

 返事を聞かないままに男性の口は更に言葉を紡ぐ。

 「俺はそこいらの教師とは違うで、オマエが気に入りそうな話もできるし、専門書も多い。良い出会いになったて思える筈や」

 最後にニッコリと笑顔を向けられながら、演技のような動作で握手まで求められてしまった。

 其の後は男性のペースに乗せられ、降りる駅はどこだの朝ご飯をご馳走しようだの帰りは車で送ろうだのと、会話は進められて結局男性の部屋へお邪魔する運びになった。事実、化学の知識は男性の方が上手で何を訊いても明確な返答があり、本棚に詰った其の所持数は敏弥を楽しませた。
 それからは夏休みが終わるまでの短い間、お互いの時間が会えば男性の部屋へ行っては化学の話ばかりしたのだ。




 そうして迎えた二学期の始業式、校長の

 「休職していた新倉先生が今学期から戻ってこられました」
 
 の紹介で壇上に上がったのは、あの男性だった。驚いてまた口をぽかんと開ける敏弥一年生の列の向こう、高学年側では俄かな歓声が上がっていた。
 会う度に繰り返される化学の会話内容がいつも頭を駆け巡っていたから、本名や化学者以外の素性を気にする隙間もなかった。敏弥自身、別段知りたいとも思わなかったし彼も訊いてこなかった。ゆえに自分の高校に勤めているなんていうことは想像すらしなかったのだ。
 予想外のこの展開。
 
 『学校の化学はおもんないて言うとったけど、俺が居ればむしろ逆やろ』

 下校中、送信されてきたメールは自身満々な文面で、なおかつ敏弥にとっては図星の其れだった。




不変の青い
化学ポテンシャル















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